~2021.10.31 借景の宿~
十月の絵の具が燃え上がる森へ 素肌にセーターがちくちく痛いの。(葡萄姫 By松田聖子)
「借景」という言葉自体は知ってはいたが、本当にその存在というか価値というか効果を知ったのは、秋の奥湯河原でだった。上の娘がまだ生まれたばかりだったから、バブル崩壊直後の秋、10月の下旬か11月の頭ごろだったように思う。東京の僕の実家の不動産会社を継いだ兄が、お客様を接待する常宿として使っていたという、その品の良い旅館に来たのは、父が入院し気が塞いでいた東京の母を励まそうと、私と妻と生まれたばかりの長女を連れて一泊の小旅行に連れ出したからだった。
伽羅が焚き染められた旅館の玄関、通された客室の佇まいを見て、奥湯河原海石榴は今までの人生で一番高価な旅館であることは容易に想像がついた。しかしこの宿の本領は、そこでも夜に出てくる懐石料理でもなかったことを、僕らは知ることになる。大浴場に向かう途中の窓の1枚1枚が、滝のように流れ落ちる紅葉でまるで絵のようになっていてその度に足が止まる。着いた迎賓館のラウンジから見渡せる箱根外輪山の紅葉のパノラマは、部屋に足を踏み入れた瞬間に息をのむ程の美しさだった。この海石榴を設計した建築デザイナーはプランニングの前に、幾度となくこの地にこの季節に来て立って見渡して、どの角度から「借景」をすればすべての窓がそれぞれ1枚の絵のように見えるかを綿密に計算したに違いない。でなければ、こんな完ぺきな「借景」が完成できるはずはない。これは「借景」を完ぺきにする事を優先に設計された「借景旅館」だったのだ。僕は建築にも旅館の経営の事にもことさらそのROI(=投下資本回収率)などに関しては、まったくの門外漢であり詳しくはない。でも、これだけの「借景」を実現するにあたり、色々な事を犠牲にしたであろう事は容易に想像がつく。すべてがデジタル化された現代において、非効率であっても物の本質を貫き通すその姿勢に、我々が扱う「世界から集めた逸品たち」にも通じる「文化レベル」を感じた秋だった。いつかは春に桜の季節に訪れてみたいと思っている。