~2022.08.22 夏陰~
今年初めてまともに甲子園の試合を見たのは、8月18日の木曜日。前日までの異常なほどの暑さが一転、湿度が下がった秋を予感させる涼しい一日となった日、クリニックの待合室のTVで流れていた大阪桐蔭対下関国際の試合だった。あーまたどうせ一方的に大阪桐蔭が勝つんだろうなあ、と思っていたその試合は、あにはからんや下関国際が懸命に食らいつき接戦となった。
そしてあろうことか終盤に勝ち越し点を奪って勝ってしまったのである。
現在に至る僕の高校野球フリークぶりは、小学生3年生の夏に突然始まった。9歳の夏である。元々野球好きの父がいる我が家では、夜はプロ野球の中継を見ながら夕食がデフォルトだったし、8月ともなれば昼は高校野球の中継をずっと観ていた気がする。
その夏の決勝戦はあの伝説の「三沢松山」だった。
それまで高校野球の中継などには殆ど興味がなかった9歳の僕が、家族全員がTVの前から動けなくなる程の熱戦、そして恐らくは松山商業関係者や愛媛県民を除く全国の視聴者(ちょっと大げさか)が送っていたであろう青森県立三沢高校、そして元祖甲子園のアイドルと言われた太田幸司投手への声援の熱量にいつしか引き込まれ、いつのまにか三沢高校をそして太田幸司投手を応援していたのだ。当時は、まだ現在で言うところのいわゆる「野球学校」と称される私立の高校が台頭してくる前であったので、公立のそれも商業高校とか工業高校(広島商業とか熊本工業とか)とかに強豪校とか甲子園の常連校が多かった時代。特にその中でも松山商業は別名「夏将軍」と呼ばれ、夏の甲子園に特に強い(この69年の優勝を含めて通算5回もの優勝を誇っている)高校として堂々の存在であった。対して三沢高校は、当時野球が決して強いとは思われていない青森県代表(正確には「北奥羽代表」だった。当時はまだ1県1代表ではなく、青森を勝ち抜いた後、岩手県代表に勝たなければ甲子園には行けなかった。)の公立の普通校。たまたま出現した超高校級の投手太田幸司(ロシア人の母を持つハーフで、端正な顔立ちから元祖「甲子園のアイドル」と言われていた)を擁した為に、前年の夏、同年春と3季連続出場してはいたがまさか決勝まで勝ち進むチームである思われてはおらず、全くのダークホースであったと言えよう。
もちろん当時でも、青森県はおろか東北地方に優勝旗が渡った事はなく、決勝に進んだこと自体も1915年(大正4年)の第1回大会の秋田中(決勝で京都二中に延長13回、1-2でサヨナラ負け)以来54年ぶりの事だった。
2011年の第93回大会の光星学院から昨年までの10回中(2020年は新型コロナウィルスの為大会自体が中止)4回も決勝に進んでいる昨今の躍進ぶりとは違って、当時は東北や北海道そして裏日本の代表というだけで「弱い」と決めつけられていた時代。今のように屋内練習場も完備していなかったので、こうした地域の学校の野球部は雪のあるシーズンは練習ができなったので「雪国のハンデ」と言われていたのである。
そんな地域から出場してきた無名の公立の普通校が、今で言えば大阪桐蔭ばりのバリバリの本命の強豪相手の決勝戦で好勝負を展開している。それだけで判官贔屓の天秤ばかりは一気に三沢高校の応援に傾いてしまうものだ。
0-0のまま延長になり、(ちょっと詳細はさすがに覚えてはいないが)裏の攻撃の三沢高校は何度かサヨナラのチャンスを迎えた。スクイズがホームでアウトになったり、フルベースでカウントが0-3になって松山のエースの井上君が投げた4球目が際どかったり、と勝利の女神は何度か三沢高校そして東北地方に微笑みかけたのだ。
結局、三沢高校は幾度かあったサヨナラのチャンスをものにできず、延長18回で両軍無得点のままdr引き分け。規定通りに再試合となった次の日の試合を2-4で落としてしまい、準優勝で終わってしまう。現在よりもさらにハードスケジュールだった当時は、投手の連投など当たり前だったしエースが一人で投げ切る事が美談のように語られてもいたほど。当然田舎の公立高校に偶然にスーパーエースが出現した事でそこまで辿り着いた三沢高校に力のある控え投手がいるはずもなく、前日延長18回262球を投げ切った太田幸司が連投。対する野球強豪校の松山商業は控えにも良い投手(中村投手)がいて継投で逃げ切り、最後はチーム力の差が出たかっこうになった。
初めて高校野球で応援したチームは残念ながらその試合では負けてしまったけれど、球児達の熱い戦いに魅せられた僕はそれ以来、毎年春の選抜と夏の選手権を欠かさず見続けてきて、かなりのレベルの高校野球フリークとなったのだ。正直どのスポーツにも詳しいし、語れるだけの知識は持ち合わせている僕ではあるけれど、サッカー(特にワールドカップ)や競馬(馬券には一切興味なく、ブラッドスポーツとして観るだけです)と並んで高校野球に関しては「マニアックである」と断言できるほどの知識がある。
それは、この時期になれば甲子園はもちろんの事、甲子園の終盤戦の裏側でこっそり始まっている、秋の地区大会→県大会→関東大会などの地方大会→神宮大会という来年の選抜の出場を占う流れをもしっかりチェックしていて、関東大会はたまに実際に観戦に行っていたほどのマニアックぶりなのだ。
そんな僕がここ数年、高校野球をしっかりは観ていない
それは近年の高校野球が、大阪桐蔭を頂点とする野球強豪校しか勝てない場になってしまったと実感したからである。実際に2011年の日大三高の優勝以降2018年の大阪桐蔭までの8年間は関東の私立の野球強豪校か大阪桐蔭しか優勝していない。(うち大阪桐蔭が3回だ)
三沢高校のような学校が出現したのは、2007年の佐賀北まで遡らなければならないし、もうそんな奇跡は起こらないのかもしれない。
大阪桐蔭が負けたことがニュースになるぐらいに一つの高校がとびぬけて毎年強い、以前のPL学園をも凌駕する今の状況に、以前まで夏の高校野球が開幕(僕の場合の開幕とは、地方予選が最初に始まる沖縄とか北海道の開幕を意味する)するのを待ちわびていたワクワク感が削がれていっているのは確かだ。
だから今年は8月18日、少しだけ秋めいた木曜日に初めてまともに第104回の夏の甲子園を観たのだ。クリニックの待合室で。
大本命だった春の覇者大阪桐蔭を破った下関国際は準決勝でも春の準優勝校の近江高校にも勝って決勝に進み、そこでは仙台育英敗れた。
あの三沢松山から53年の時が流れた今年、ついに深紅の大優勝旗が白河の関を越えて宮城県仙台に、東北に渡った。東北を飛び越えて北海道に先に優勝旗が渡った2004年からも18年遅れではあるが。三沢高校の準優勝以降実に7回も決勝で敗れてきた東北の高校がついに栄冠を掴んだ。実に5人もの力のある投手を起用しての優勝は、たった一人のエースで決勝再試合に敗れた三沢高校と対比すると感慨深い。
閑話休題
それは、早ければ花火大会の夜の帰り道だったりする。普通は何でもない日常の朝だったりする事が多い。
「初めて秋を感じた瞬間」の事だ。
いつもの洗顔の水が少し冷たく感じたり、いつもの温度の冷房が効き過ぎて軽くくしゃみをしたり、半袖のパジャマで少し涼しくて長袖に着替えたり。何気ない日常の何気ない瞬間にそれは転がっている。
それが歌だったりもする。さっきまで話題の中心だった高校野球。高校野球フリークの僕は昼間に試合を観れた日も観れなかった日も、必ず夜にはTV朝日の「熱闘甲子園」を観るのが日課だった。まだ地方予選の事は毎晩「甲子園への道」を観て、出場校のプロセスやそのストーリーを共有して、本大会を迎えるという念の入れよう(笑)
そして長嶋茂雄の娘、長嶋美奈が長くMCを務めていた事でも有名な「熱闘甲子園」は、そのオープニングテーマ曲やエンディングテーマ曲が話題を集める事も多い。
古くはTUBEやエレファントカシマシ、渡辺美里、ウルフルズ、藤井フミヤ、スキマスイッチなど、最近ではFUNKY MONKEY BABYSやGReeeeN、コブクロ、関ジャニ、嵐など錚々たるアーティスト(歌手?)がそれを担当してきた。
その中で僕が特に印象に残っている曲がある。2005年のエンディングテーマ、スガシカオの「夏陰」だ。
大会が進んでいき、残る学校が少なくなっていくと、クライマックスの盛り上がりと共に寂寞の想いも込み上げてくるものだ。
そして、決勝が終わり人気の無くなったスタジアムに夕陽が落ちる。バックネットを吹き抜けていく涼しい風は秋の匂いがしている。という心象風景を見事に表現した名曲。
この時期になるとピンポイントで聴きたくなる曲だ。
2022年僕の秋服最初の日は、8月22日。仙台育英高校が長い雌伏の時を超えて深紅の大優勝旗を白河の関の先へと初めて運んだ夕方。
秋めいた風が吹く夕暮れ。万感の想いと共に、「夏陰」を口ずさみながら、今年購入したグレージュのジャケットに袖を通してみた。
「夏陰」 作詞スガシカオ 作曲スガシカオ